太白区
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更新日:2023年12月22日
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丸瓦の模様は単弁の蓮華文
7世紀~8世紀初頭のものとされる須恵器の数々
7世紀の半ば、大和朝廷の支配は、ほぼ全国に及んでいたが、東北だけは例外だった。
当時、東北には、政府の支配に従わない蝦夷と呼ばれる人々がいた。
郡山遺跡(郡山2~6丁目)は、名取川と広瀬川に挟まれた広大な面積に広がる。
大正2年に漆を入れた土器が発見され、その後、瓦の出土なども確認されたが、本格的な調査が始まったのは昭和54年から。
以来、材木塀跡や大規模な建物跡などの遺構が相次いで発見され、古代の官衙(役所)跡であることが判明した。
郡山遺跡の役所は、蝦夷政策と、律令制による支配を行うための役所として機能していた。
その存在は、多賀城以前の役所跡として、全国の注目を集めることになった。
これまでの調査の結果、郡山遺跡には、7世紀後半から8世紀の初めにかけて、2時期にわたる官衙が造られたことが分かっている。
調査によると、7世紀後半に造られた最初の官衙は、南北600メートル以上、東西300メートル以上の広さに、基準線が真北から東へ30~40度ふれた状態で、官衙院や倉庫群などが配置されており、統一的で大規模な造営が行われたことを示している。
石に囲まれた池はII期官衙
また、7世紀末には、それらは取り壊され、方四町(428メートル四方)の広さに真北を基準にして新たな官衙が造営された。
2期目の官衙跡には寺院が付属して造営された。現在、郡山中学校の一階部分に、官舎跡など遺構の一部が復元・展示されている。
多賀城が造営されるとともに、郡山の官衙はその役割を終えた。しかし、それまでは、陸奥国の拠点。古代の中枢施設が、太白区に存在していたことになる。
愛宕山・大年寺山の北・東・南斜面にある横穴墓群。六~八世紀の墓とみられ、地方の豪族や律令官人などの墓と考えられている。とくに大年寺山一帯は、郡山遺跡との関係から、官人・僧侶階級の一大墓域になっていたものと考えられる。
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