太白区
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更新日:2016年9月20日
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中央部に有力者を葬ったとされる1辺約5mの墓
飛鳥時代の住居跡。4本柱と正面にカマド跡
王ノ壇遺跡(大野田)では、地表から順に、「鎌倉時代の屋敷跡」「平安時代の水田跡」「奈良~平安時代の畑跡」「飛鳥時代の住居跡」「古墳時代の円墳」「縄文時代の生活跡」が発掘された。
最も古い地層で約3500年前(縄文時代後期)、最も新しい地層で約700年前(鎌倉時代)のものとされる。
時代とともに変遷する地域の姿を伝える貴量な遺跡で、とくに鎌倉時代の武士の屋敷跡は、当時の暮らしぶりを伝えるものとして注目された。
大野田地区は、南の名取川と北の旧笊川とに囲まれた地域。たび重なる洪水で土砂がたい積し、小高い土地になっている。
人々が暮らし始めたのは、4500年以上前から。言い伝えによれば、かつて、「東平王」と呼ばれる有力者がおり、この王を葬った墓は「王ノ壇」といい、それが「大野田」になったという。
遺跡には今も円墳が残り、壇給も出土している。太白区内にあるその他の主要な遺跡(平安時代以降)は次の通り。
仙台市体育館の敷地内に位置している。県内で初めて平安時代、中世の水田跡が発見された。最近では弥生時代の水田跡も発掘されている。水田跡は東西に長い長方形である。
茂庭台団地の南の谷で、製鉄炉・作業場・資材置き場などの製鉄遺構が見つかった。平場の下の谷には、製鉄の時にでる鉄かすが多数見られる。製鉄に使われた砂鉄は、遺跡のそばの岩の川流域から採った可能性がある。
名取川北岸の自然堤防上に位置する遺跡。竪穴住居跡のカマドの周辺から土師器や須恵器の杯や製鉄鋤先、刀子などが出土。9世紀ごろのものとされる。
愛宕山の頂上付近で見つかった塚の石室から鍍金された経筒(口径約4センチ、高さ約10センチ)が発見された。中に納められていたのは永楽通宝などの中国銭。筒には死者を供養する行者の名が刻まれている。16世紀前半ごろのものとされる。
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