太白区
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更新日:2023年12月22日
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樹根の出土状況。マツ科の新種が発見され「トミザワトウヒ」と命名された
富沢遺跡は、地下鉄建設に伴う試掘調査を機に発見された。その範囲は、鹿野・長町・長町南・泉崎・富沢の各地に及び、約90ヘクタールもの広さに及ぶ。
出土したのは地表から順に、「中世から近世にかけての水田跡」「奈良・平安時代の水田跡」「古墳時代の水田跡」「弥生時代の水田跡と木製農耕具」「旧石器時代の樹木と石器群」など。掘り進むにつれ、新たな発見に出会うことになった。
2万年以上の昔から太白の地で営まれていた先人たちの暮らしが、それらの遺構や出土品から明らかになっている。
発見された動物のフン
90次を超える調査を重ねた富沢遺跡からは、世界の注目を集める貴重な遺物が多数見つかっている。
なかでも重要なのは、地表下5メートルの地層で発見された後期旧石器時代の文化層。火を焚いた跡や石器、樹木、昆虫の遺体、動物のフンなど、自然環境や暮らしを伝える遺物が掘り出された。
それらはおよそ、2万年前のものである。そのころの地球は最終氷河期で、平均気温は現在よりも7~8度低く、最寒冷期にあたっていたといわれる。
当時の気候風土を証明するかのように遺跡から出土した樹木はトウヒやグイマツなどの針葉樹が多く、わずかにシラカバなどの広葉樹が混じっていた。
この周辺は、現在のシベリアのような、針葉樹を中心とした湿地林が広がっていたのだろう。
また、フンからは、シカの仲間が生息していたことが分かっており、越冬地だったとの推測もある。
さらに、火を焚いた跡やその周辺で見つかった100を超える石器から、森の中で暮らす人間の姿が浮かんでくるなど、富沢遺跡は、旧石器時代の人間と自然環境を具体的に伝える、世界に例のない遺跡として、注目を集めることになったのである。
それより以前、富沢遺跡からは、弥生時代から近世に至る水田跡のほか、中・近世の居城跡や縄文時代の遺構・遺物などが発見されている。
それらの中でも興味深いのは、弥生時代の水田跡。中期から後期にかけて、6期程度の変遷が認められている。
富沢遺跡で見つかった水田は、大あぜによって大きな区画を作り、その中を小あぜが小さく分割するもの。現在のように広々と続いているのではなく、場所や広がりは、各期によって異なっている。
この時代、周辺はヨシなどが生い茂る広大な湿地が広がっていた。当時の人々は、条件の良い場所を選んで水田を営んでいたが、自然条件の変化などによって、場所を移していったのではないかと考えられている。
遺跡からはそのほか、木製の鋤や鍬、稲の穂摘み用の石包丁など、当時の農耕技術を知ることができる遺物も発見された。
弥生時代を特徴づけているのは、何といっても、稲作と土器。農耕生活から村が生まれ、組織の形態が整い始めた。
富沢遺跡は、そのころの東北の稲作文化を知る貴重な手掛かりとなっている。
稲穂を摘み取る時に使った「石包丁」
水田跡から発掘された弥生時代中期のものと思われる鍬
西台畑遺跡から出土した土器
西台畑遺跡(郡山)は、広瀬川石岸の自然堤防上に位置する弥生時代中期の遺跡。
昭和32年、レンガ用粘土の採掘中に、地下2メートルの狭い範囲から、ほぼ完全な形に近い土器15点が出土した。
その後、人骨片を伴う墓も発見され、この付近一帯が、弥生時代中期の墓域であることが判明している。
出土した土器は、人骨の埋納用あるいは副葬品だったと思われるが、墓域に関わる遺構・遺物などは見つかっていない。
しかし、すぐ近くからは川幅60メートルにも及ぶ大河川の跡が発見され、広瀬川の旧河道だった可能性もある。
もし、この河川が弥生時代にもあったとすれば、墓域は川のほとりに位置していたことになるという。
遺跡から掘り出された土器は、縄文時代のものとは形も文様も大きく異なっている。
2万年前の氷河期の森と人類の生活跡が発見された富沢遺跡を保存・活用している「地底の森ミュージアム」は,太白区長町南に平成8年にオープンしました。
ここでは,富沢遺跡から発掘されたままの旧石器時代の遺跡面を現地で保存し公開するとともに,発見された資料などから,当時の環境と人類の活動を生き生きとよみがえらせる展示をしています。
広さは約14000平方メートルで,全体の3分の2以上を「氷河期の森」という広場が占め,その中に「富沢遺跡保存館」があります。
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