太白区
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更新日:2023年12月22日
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人類の歴史は、約400万年もの昔にさかのぼるという。
アフリカを中心に生活していた猿人が、その始まり。次に、火を使う原人が現れ(約100万年前)、彼らの時代が、20万年ほど前まで続く。
やがて人類は、旧人を経て、現代人と変わらぬ脳の大きさを持つ「新人」へと進化する。新人の登場は、約3万年ほど前。最終氷河期(ウルム水河期)のころといわれる。
太白区では富沢遺跡が、その時代のもの。約2万年前の生活や自然環境を伝える遺跡として、世界の注目を集めた。
原人から旧人ヘ、そして新人へと続く人類の歴史。太白区の遺跡も、その足跡をたどるように続く。
氷河期の富沢の風景
名取川は、秋保の神室岳から流れ出て、生出、富沢、大野田を通り、閖上から太平洋へと流れ出る。山あいから平地へとうねる豊壌の大河は、流域に豊かな恵みを与え、長い間、人々を潤してきた。
仙台市内にある遺跡の約3分の1、250力所近くが名取川沿いにあり、そのほとんどが太白区内に位置しているという。現在の太白区は、はるかな昔から人間が暮らす、生活の中心地だった。
旧石器時代から縄文時代にかけて人類は、丘陵や川沿いのやや高いところで生活を営んでいた。狩猟や木の実の採集には、その方が好都合だったのだろう。丘陵や谷筋にけものを獲るための落とし穴を掘り、住居を造り、背後に追る森や川沿いの林で木の実を拾った。
このころ、茂庭・山田・三神峯のあたりは、山あいから川が平地へ流れ出る「谷口」にあたっていたという。背後には森を抱え、名取川が刻んだ段丘や、小高い丘陵が続く。当時の人々にとって、とても暮らしやすい土地だったに違いない。周辺には、旧石器時代から縄文時代にかけての遺跡が数多く見つかっている。
茂庭けんとう城跡の落とし穴、梨野A遺跡の集落跡、山田上ノ台遺跡、三神峯遺跡など。後期旧石器時代の存在を証明した遺跡や、大規模な縄文時代の集落跡など、貴重な遺跡が残っている。
下ノ内遺跡から出土した縄文時代中期の土器
弥生時代に入り、稲作を中心とした生活が営まれるようになると、旧石器時代や縄文時代には少なかった集落跡が、やがて名取川流域の平地にいくつも見られるようになる。川が築いた豊かな大地は、耕作には最適だった。若林区の中在家南遺跡や高田B遺跡では、大量の鍬・鋤などの農具が出土しており、このことを裏付けている。
また、現在の富沢周辺は、湿地帯だったらしく、富沢遺跡を中心に数多くの水田跡が見つかった。それら水田跡は弥生時代から近世まで重なり、営々と続いた耕作の歴史を物語っている。
四世紀に入ると、発達した農耕社会は、やがて支配する者を生み出した。豪族と呼ばれる権力者が集団を統率し、有力者の墳墓が築かれるようになる。それが、古墳時代。名取川周辺には、有力な豪族がいたことを伝える特徴的な前方後円墳が、いくつか残されている。
なかでも知られているのは、根岸にある兜塚古墳。円丘状マウンドが、今も仙台南高等学校の敷地内に残っている。ほかに、王ノ壇古墳で有名な大野田古墳群などがある。
名取川下流域の四郎丸地区でほ、四世紀の方形周溝墓群や集落跡が見つかっており、若林区の藤田新田・高田B遺跡の成果を合わせると、四世紀には仙台平野の海岸部に集落や古墳が広範囲に進出していたことが分かる。
茂庭・三神峯から富沢ヘ。そして根岸・大野田ヘ。時代とともに人々は、名取川の下流や広瀬川流域へと、次第に生活範囲を広げていった。
大野田遺跡から出土した縄文時代後期の土器
7世紀の後半、郡山に、律令政府の役所が造られた。律令制による支配を行うための行政施設でもあった。
多賀城の造営とともに郡山官衙は姿を消すが、それまでこの地は、陸奥国の中心的存在。寺が築かれ、大規模な建物などが並ぶ。大年寺山周辺には、官人や僧侶の墓も築かれ、生活基盤も大きな広がりを持っていた。
太古から現代に至るまで、太白区内では盛衰が繰り返され、それぞれの時代に、それぞれの文化が築かれてきた。その源流となったのが、名取川。数万年にわたる歴史がつづられている。
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