若林区
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更新日:2016年9月20日
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永禄年間(1558~69)に京都伏見稲荷の分霊を勧請し、広瀬川北岸に建立された。伊達政宗は江戸への初参勤の際、この神社に代参をたて安全祈願をして無事帰国できたので、のちに旅立明神と名づけ笠と杖を奉納したという。
明治3年(1870)に南小泉の鎮守を合祀して保食神社(うけもちじんじゃ)と改称された。保食神は穀物の神で稲荷神社の祭神であるためこの名となったが、今も旅立稲荷と呼ばれて旅の道中安全や交通安全の神社として信仰を集めている。
4月28、29日が例祭。推定樹齢200年のケヤキがある。
この地の領主、粟野大膳が文治3年(1187)に沖野城を築く時、守護神として敷地に勧請したという。
本殿にかかっている算術の絵馬は、近くの清涼寺に碑のある関流算術の丹野清晴が慶応3年(1867)に納めたもので、4つの幾何問題の解法が書かれている。
明治元年(1867)から5年間、ここで神官が塾を開いていた記録がある。
寛治年間(1089~93)に源義家が日辺に勧請し、慶長5年(1600)に飯田に住む渡辺藤四郎という人物が現在地に移したという。
ご神体は応神天皇乗馬像で、閻浮檀金(えんぶだごん)という良質の砂金で造られている。旧六郷村社だった。
文亀2年(1502)、二木邑(ふたきむら)勘右衛門が近江の日吉神社の分霊を祀ったという。
文化元年(1804)の石の道標があり、「南無阿弥陀仏 右 北あらはま 西せんだい 左 東いとはま 南 ゆり上」とある。
昔は五社明神と呼ばれた海に面した神社で、5体のご神体が筏に乗って漂着したという伝説がある。
五柱とは、「大神宮」「賀茂」「祇園」「稲荷」「春日」を合祀する総神社のことで、康平3年(1060)の前九年の役に源頼義、義家親子が常陸の国村松に勧請したものを、永享7年(1435)の戦ののちに足利持氏がこの地に移したという。
のちに由来を聞いた政宗が社殿を改築し、代々保護されてきた。
また、境内にはご神体を乗せてきた藤蔓(ふじつる)を埋めたところ根をつけたというフジの木があり、すべてが左巻きの蔓をくぐると疫病封じになるといわれた。このフジが藤塚の地名の起こりという。
このページは、仙台開府400年を記念して実施した「若林区の魅力発見事業」で平成14年度に製作しました。
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