若林区
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更新日:2022年6月21日
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仙台城下の南の入り口に設けられ「丁切根」とよばれた木戸は、朝6時に開き、夕方6時に閉じられる決まりで、河原町の針生家が木戸番として鍵を預かっていた。針生家は、幕末には蒟蒻(こんにゃく)の専売権を許されていた。
なお、仙台の丁切根は、ほかに八幡町、堤町、原町にあった。
河原町の南にいまでもその跡があり,昔をしのべる。
仙台城下での侍屋敷と町屋敷は、まずその名で区別されていた。
侍屋敷には「丁」(ちょう)の字が使われ、足軽や職人、町人の屋敷には「町」(まち)の字が使われた。
江戸時代中期以降、仙台城下には主要な町人町が二十四ほどあり、これを総称して「町方二十四カ町」とよんだ。
この「町方二十四カ町」には序列があり、町政に際しては重んじられていたようである。序列の理由ははっきりしていないが、町の成立の歴史とかかわりがありそうである。
河原町での野菜売りの元祖は、河原町入り口に住んでいた庄司太兵衛という人物らしい。
材木の専売権を持つ材木町は、仙台開府時には今の立町付近にあり、慶長年間(1596~1615)に今の春日町付近に移された。
若林城が廃止された後、若林材木町が南材木町となり,材木町も北材木町となった。
6つの御譜代町とは、「大町」「肴町(さかなまち)」「南町」「立町」「柳町」「荒町」のこと。
米沢では「新町(あらまち)」であったが、仙台に移り「本荒(もとあら)の里(宮城野原といわれる)に通じる道」として荒町となったという。
この像は鎌倉時代に平泉の藤原秀衡(ひでひら)が運慶(うんけい)につくらせ、藤原氏が源頼朝に滅ぼされたあとは泉の松森城をへて北目城(現在の太白区八本松あたりという)の粟野大膳の手にわたった。
寛永3年(1626)の戦で大膳が政宗に敗れ、現在の場所に安置されたといわれる。
政宗は落城しない北目城の毘沙門天に願掛けをして勝利し、お堂をつくったという。像は明治37年(1904)の火災にあったが、倒れずに焼け残った。
若林区には三十三観音のうちの17カ所がある。
仙台三十三観音信仰は元禄期(1688~1704)に始まったといわれ、商人たちを中心に観音講がつくられていった。札所を順に3~4日かけて巡り歩き、行楽を楽しむ一面もあったようだ。
昭和11年(1936)に大町の茶舗の主人がたてた三十三観音の石柱が各観音堂に残されている。
仙台七福神は、昭和61年頃から市内の曹洞宗寺院などが唱えだしたもの。
昭和48年(1973)に杜の都の環境をつくる条例が制定され、名木、古木の中から保存樹木が指定された。現在約170本が指定されているが、うち約30本が若林区内にある。残念ながら開発による伐採や樹勢の衰えなどで指定解除になる樹木もあり、本数は常に変化している。
遠くからも目立つ大木は地域のランドマークであり、また地域の歴史の証人ともいえるだろう。
1本1本の木を、その物語を思い起こしながら歩くのは楽しい。
樹木名 |
所在地 |
所有者(敬称略) |
推定樹齢 |
---|---|---|---|
大林寺のカヤ |
新寺4丁目 |
大林寺 |
250年 |
正楽寺のイチョウ |
新寺2丁目 |
正楽寺 |
300年 |
正楽寺のクスノキ |
新寺2丁目 |
正楽寺 |
200年 |
成覚寺のナツツバキ |
新寺3丁目 |
成覚寺 |
300年 |
愚鈍院のコツブガヤ |
新寺3丁目 |
愚鈍院 |
250年 |
道仁寺のタブノキ |
新寺5丁目 |
道仁寺 |
200年 |
道仁寺のサクラ |
新寺5丁目 |
道仁寺 |
200年 |
道仁寺のシダレザクラ |
新寺5丁目 |
道仁寺 |
200年 |
栽松院のシラカシ |
連坊1丁目 |
栽松院 |
1000年 |
信夫神社のイチョウ |
三百人町 |
信夫神社 |
350年 |
大荒神社のイチョウ |
南鍛冶町 |
三宝大荒神社 |
320年 |
東漸寺のクロマツ(2本) |
南鍛冶町 |
東漸寺 |
350年 |
東漸寺のコウヤマキ |
南鍛冶町 |
東漸寺 |
200年 |
満福寺のクロマツ |
荒町 |
満福寺 |
300年 |
薬師堂のヒイラギ |
木ノ下3丁目 |
薬師堂 |
200年 |
薬師堂のアラカシ |
木ノ下3丁目 |
薬師堂 |
200年 |
薬師堂のイチョウ |
木ノ下3丁目 |
薬師堂 |
350年 |
聖ウルスラ学院のケヤキ |
一本杉町 |
聖ウルスラ学院 |
250年 |
若林区役所のシダレザクラ |
保春院前丁 |
仙台市 |
390年 |
古城のクロマツ |
古城2丁目 |
宮城刑務所 |
330年 |
古城の臥竜梅 |
古城2丁目 |
宮城刑務所 |
360年 |
旅立稲荷神社のケヤキ |
若林2丁目 |
旅立稲荷神社 |
200年 |
六郷のカヤ |
二木字北中谷地 |
菅野ハルエ |
300年 |
井土浜のクロマツ |
井土字宅地 |
丹野幸志 |
200年 |
七郷のオオクワ |
荒井字畑中 |
萱場庄一 |
300年 |
浄土寺のクロマツ |
荒浜字西 |
浄土寺 |
200年 |
初代は江戸初期の名刀工で山城大掾(やましろだいじょう)の官名を授かり、藩のお抱えとして技術が受け継がれた。
昔は七北田の刑場で重罪人を火あぶりにしていた。ある時小さな子どもたちがそれを見て、真似をして一人の子を縛って落ち葉を集めて火をつけたところ、助ける間もなく焼け死んでしまった。親たちは嘆き悲しみ、8体の地蔵をつくって死んだ子を弔らった。これが正雲寺の八地蔵だという。現在、八地蔵は頭部が失われた形で境内に残されている。
仙台藩の寺は格付があり、一門格(いちもんかく)、御盃返上格、着座格(ちゃくざかく)、召出格(めしだしかく)の順だった。若林区内の一門格は保春院で、ほかには北山五山や輪王寺、新寺小路の孝勝寺(宮城野区新寺)など17寺、御盃返上格の15寺のひとつが松音寺、着座格の34寺には、阿彌陀寺、成覚寺、愚鈍院、正楽寺、善導寺、大林寺、妙心院、林香院、長泉寺があった。
小池曲江、菅井梅関、菊田伊州、東東洋。
椙原品が江戸吉原で有名だった遊女高尾だという通説があるが別人で、森鴎外が彼女についての評伝を書いている。高尾とは、伊達騒動に題材をとった歌舞伎の伽羅先代萩(めいぼくせんだいはぎ)に出てくる遊女のこと。
仙台藩医の木村寿禎は長崎でオランダ医学を学び、寛政9年(1797)に七北田刑場で仙台藩初の死体解剖を行った。翌年供養碑をたてたが水害で流され、残された拓本をもとに木村寿禎の菩提寺の仏眼寺に再建された。
一度のお参りで千日分の功徳(くどく)があるという大回向法要(おおえこうほうよう)を行う寺のこと。
江戸時代、天明の飢饉以後に始まった風習で、常念寺(若林区東九番丁)、願行寺(宮城野区榴ヶ岡)、清浄光院万日堂(青葉区宮町)の3寺が毎年5月13、14、15日に3年に1度の輪番で法要を行っている。境内には大回向宝塔と呼ばれる角柱が立ち、この柱からさらしの綱が伸び阿弥陀如来の手に結びつけられている。この綱に手をかけてお参りすると、亡くなった人に祈りが通じるという。
『残月台本荒里』によると延宝年間(1637~81)の頃に、三百人町の惣右衛門という足軽宅に観音が現れ、近隣の人々の信仰を集めた。続いて荒町の毘沙門堂に現れ、最後に皎林寺に落ち着いたという。
政宗が毘沙門天を運んで荒町あたりを通ったとき、誰の願いでも聞いてくれるなら危険だ、と捨ててしまった。
子どもたちがそれを見つけ、大人たちがお堂をたてて安置しようとしたが、壇が高すぎて持ち上げられなかった。しかし、板を1枚ずつ両わきから差し込んでいけばいいという子どもの知恵で、無事に祀られた。
毘沙門天が感謝して、子どもたちの望みを叶えてくれることになったが、子守が大変で遊べないという不満を聞き、荒町の子どもは子守をしないで遊べるようになったという。
これが子育て毘沙門のいわれで,毘沙門天であるのに子育ての神として信仰があつい。
円福寺にある「南無阿弥陀仏」と刻まれた承応3年(1654)の碑は、孫兵衛堀の橋として使われていたもの。
堀の廃止で埋まっていたが、明治末期に掘り出され石名坂に立てられていた。これは石名の墓石で、花魁になった罪ほろぼしに墓を人に踏みつけてもらおうと遺言したため、橋に使われたという。
明治5年(1872)の学校令で小学校がつくられた。
三百人町小学校のほか、若林区内では第6番小学校が南材木町小学校が民家を借りて明治6年に創立している。
同じ年に、荒浜小学校(浄土寺)、六郷小学校(満蔵寺)、東六郷小学校(東禅院)、七郷小学校(法性寺)、南小泉小学校(少林神社)が創立している。
密教において息災,敬愛,得福などを祈願する本尊。奈良,平安時代に広まった本地垂迹説(ほんじすいじゃくせつ)で,仏や菩薩は日本の神の姿で民衆を救済するとされ,愛染明王の元は大日如来だという。のちに恋愛の誓いをたてる神とされ,愛染が藍染に通じることから染物師の信仰を集めた。
講談などで有名な江戸の侠客、笹川繁蔵が天保13年(1842)に開いた大花会(大がかりな花札ばくちの会)で、やはり有名な侠客の大前田英五郎と一緒に上座に座ったほどの大物だった。
本業は大町四丁目の仙台藩御用染物屋であり、幕末の蘭学者、高野長英を仙台藩の蘭学指導者として招く運動をおこし、長英が投獄されたのちに脱獄した際にはひそかに逃亡を援助している。
また、仙台城下の相撲や芝居、見せ物の興行一切をとり仕切って面倒をみていた。
明治43年(1910)仙台市立町生まれ。仙台二中卒業後上京してバレリーナを目指す。エリアナ・パブロアに師事したのちバレエ研究所を設立、昭和16年には第1回公演を開き「牧神の午後」などを踊っている。
戦時中も活動を続け、戦後の21年に東京バレエ団結成記念公演で踊った「白鳥の湖」は日本初演となった。
その後は東勇作バレエ団を率い、昭和46年に亡くなるまでバレリーナとして、また振り付け師として、日本バレエ界の発展に貢献した。
松山バレエ団を中心に「東勇作同門会」が結成されており、記念碑はこの会のメンバーが発起人となり、勇作の菩提寺である冷源寺に平成10年に建てられたもの。白御影石の碑の上に「牧神の午後」を踊る勇作のブロンズ像がのっている。松山バレエ団仙台公演の際には、団員が決まって墓参りに訪れるという。
今は青葉区の仙台駅北部にある地名だが、そもそもは成田町にあった天台密教の寺の名だった。
文亀3年(1503)に熊谷文長という修験者が京都聖護院の末寺として開いたが、火事で焼けて安永2年(1773)光禅寺通に移っている。
伊達家の祈祷所として保護されていたが、明治維新で天台宗の寺となり、その後廃寺になって地名として残った。成田町の火事の時、本尊が信者によってひそかに運び出されて三宝荒神社に祀られたという。
その本尊を御開帳しようとすると必ず災いがあるといわれ、公開されていない。
昔、広瀬川は七郷を流れ、深沼で海にそそいでいた。
洪水がひんぱんに起こるので村人たちは大変困っていたが、七郷の五ツ谷(いつつや)の行人(修験者)が洪水を防ぐために人柱(ひとばしら)として生き埋めになることになった。竹の筒がさし込まれただけの穴の中で21日間鈴を鳴らし,本願をかなえて行人は亡くなった。それからは川の水が閖上に流れて洪水が起きなくなったという。
その行人を祀ったのが行人塚だという。
新寺小路、清水小路、野干小路、大名小路、狐小路、桜小路、谷地小路、連坊小路は江戸時代に書かれた「奥陽名数」(弘化3年(1846)出版)で仙台八小路と呼ばれている。
このほか、道場小路(東一番丁南端の柳町から南の東北大学の構内を通る剣術道場があった小路)や寺小路(元寺小路)を八小路に含めることもある。
神話によると、日本武尊の死後に尊の霊が白鳥となって飛びたち、白鳥が羽を休めたところに墓がつくられたという。そのため尊の墓陵は白鳥陵と呼ばれるようになった。尊を祀った神社は白鳥の出てくるさまざまな伝説を生み、白鳥神社という名で全国いたるところに見られる。
成田町の白鳥神社が勧請された大高山神社は現在も柴田郡大河原町にある。
昭和4年(1929)、仙台塩竈間の東北本線の線路を使ってガソリンカーの営業が始まった。しかし故障続きでわずか三日で廃止となったという。その後、昭和7年8月に再開され、塩竈長町間まで路線が広がった。
山王、東仙台、小田原東丁、仙台、そして三百人町、行人塚にも駅が置かれた。ガソリンエンジンを積んだ車両で、一両43名定員、全長10メートル、最高50キロのスピードが出たという。
戦時色が強まると燃料不足のため運行本数が徐々に減り、戦後に廃止されて駅も取り壊された。年配の市民にとってはなつかしい乗り物である。
足軽と同じく下級の家臣で、卒(そつ)という身分に属して藩の施設警備や巡回、荷物の運搬などの雑務を担当していた。
昔は川を渡る場所を渡(わたし)や渡戸と呼び、渡し船や板の仮橋で対岸に渡った。また、浅瀬を歩いて渡るのを徒渉り(かちわたり)といった。
西光院、真福寺の対岸にあった寺院。愛宕神社の別当寺だったが、明治初年に神仏分離令で廃寺になった。土樋側から誓願寺渡戸に下りる道は、土地を提供した医者の名をとって中ノ目新道や中ノ目横丁と呼ばれていた。大正期になると誓願寺渡戸は愛宕橋の上流に移り、真福寺渡戸とも呼ばれるようになった。
誓願寺の場所にはそれ以前、政宗の父公輝の牌寺、覚範寺があったが、慶長7年(1602)火災で焼失し北山に移転した。火災は仙台城下建造にあたっていた御小人衆(おこびとしゅう)が反乱を起こし普請総奉行の金森氏の息子の勘平を殺害したためで、130人以上が覚範寺に立てこもり、藩の軍勢に滅ぼされた。背景には、仙台開府の事業が大がかりで重い負担を課せられていたため、人々が不満を持っていたことがあったようだ。御小人衆は広瀬川畔に葬られ、「こびと」が「かぶと」となまって兜塚と呼ばれるようになったという言い伝えがある。それが古墳として保存されている太白区根岸町の兜塚で、ほかの言い伝えでは、後三年の役(1083~87)で源義家が戦勝祈願のため兜を埋めた場所とも、文治5年(1189)に源頼朝の軍勢と戦い討ち死にした奥州藤原氏の武将、大河太郎兼任の首を埋めた場所ともいわれる。
仙台は河岸段丘の上につくられているだけに、変化に富んだ地形があちらこちらで見られる。坂道が多いのも特徴の一つで、城下を代表する7つの坂は「仙台七坂」として呼びならわされてきた。いまなお、使われている坂の名もある。
もとは伊達氏以前にこのあたりを治めていた国分(こくぶん)氏の城跡で、国分氏が松森城(現・仙台市泉区)に移ったあと、古城(ふるじろ)とよばれるようになった。
その跡地に伊達政宗が若林城を築いたが、政宗の没後にはふたたび城跡となった。しかし、城跡と周辺は古城とよばれ続け、現在もなお町名としていまに生きている。
政宗は、城を築いた地を若林と名づけた。そのいわれは明確ではないが、昔、中国の達磨大師(だるまだいし)が9年間座禅を組んだ少林寺(わかばやしじ)にちなんだもので、その読み方から若林となったと伝えられている。城だけでなく、周囲のかなり広い範囲が若林と呼ばれた。
当時は、町名にも若林がつけられ、「若林表柴田町」「若林染師町」「若林五十人町」といった呼び方をされていたようだ。また、政宗の生母保春院の菩提寺は少林(しょうりん)山保春院と名づけられた。
昔、この辺りに住んでいた侍夫婦が1匹の三毛猫を飼っていた。猫はたいそう可愛がられていたが、ある日のこと、妻の着物の裾を咬んで離さずに大きなうなり声をあげ続けていた。妻に襲いかかると思った夫が、危ないと思って猫の首を刀ではねると、首は天井に飛んで妻に襲いかかろうとしていた大蛇に噛みついた。
夫婦は危険を知らせてくれた猫をふびんに思い、手厚く葬った。これが、猫塚であるという。
陸奥国分寺で行われる修正会(しゅうしょうえ)という元旦から七日までの儀式のうちの一つ。
火渡りは、家内安全や商売繁盛などの願い事を書いた護摩木が燃やされる上を修験者や信徒たちが裸足になって渡るもので、3年続けると無病息災のご利益があり中風にならないといわれる。
また、昔は、奉納された張り子のダルマを借りて堂の階段を階段を転がして帰ると、子どもが健康に育つとされた。翌日、お礼にふたつのダルマを奉納する決まりだったという。いま、こうした風習は姿を消したが、前年に求めたダルマを奉納し、新しいダルマを求めて帰るお参りの人が少なくない。
竹の先にひょうたんを刺し、幣束(へいそく)をつけたもの。
境内では、彩色したひょうたんを刺し五色の吹き流しをつけたものが売られた。
多賀城に国府があった当時、陸奥国分寺では馬市が開かれたが、当時の朝廷に献上される馬の胸に下げた木製の馬形がはじまりと伝えられている。
黒地に赤や緑、白の彩色がほどこされた玩具で、八幡駒、三春駒と並んで「日本三駒」の一つに数えられた。現在もつくられている。
養種園は明治33年(1900)に伊達家の末裔である邦宗氏(1870~1923)によって開設され、「仙台白菜」をはじめ地域に適合する種苗を育成して東北地方の農業生産力向上に力をつくしました。昭和18年に仙台市に移管され、31年には土地も譲渡されています。
もともとこの地は、江戸時代までは不動堂の後藤家、登米の伊達家、丸森の佐々家の下屋敷だったものが、明治に入り伊達家に譲られたものです。明治30年代後半、当時宮城県の洋風建築の第一人者であった山添喜三郎によって、設計改築されました。この建物は現在も太白区茂庭に「鐘景閣」(しょうけいかく)の名で移築保存されています。
土地の一部は聖ウルスラ学院となり、養種園は平成元年に仙台市が政令指定都市になったのを機に「農業園芸センター」として七郷に移転、跡地に若林区役所や文化センターが建てられています。
昔は川を渡る場所を渡(わたし)や渡戸と呼び、渡し船や板の仮橋で対岸に渡った。また、浅瀬を歩いて渡るのを徒渉り(かちわたり)といった。はじめ誓願時渡戸は現在の愛宕橋より下流にあったが、のちに上流の真福寺のあたりに移った。
渡しは個人の経営で、渡し賃は三文だったと伝えられている。
奥州街道は寛永5年(1628)頃までこの地で広瀬川を渡り舟丁に入っていたが、河原町が発展するにつれて長町を通るようになり、宮沢渡戸は使われなくなった。
途絶えていた渡しが復活したのは江戸末期のことで、明治15年(1882)には渡し船に代わって木製の橋が架けられている。大正時代には渡し賃が1銭なので「1銭橋」と呼ばれて市民に親しまれた。橋は昭和13年(1938)に仙台市に寄付されている。
江戸時代の終わり頃、宗禅寺には林藤助という寺侍(てらざむらい、格式の高い寺に所属して事務仕事をした武士)の一家が世話になっていたが、実は山形藩の隠密だった。藤助は務めを終え山形に戻ったものの、幕末の混乱で藩が内戦状態になったため再び宗禅寺に身を寄せた。
住職の仙丈和尚は仕事のない一家のために渡し船の営業を思いつき、藩の許可をとって文久2年(1862)、宮沢渡しが復活した。船は長さ4間3尺、幅3尺2寸の25人乗りで林家が渡し守となり、船賃は3文。明治15年につくった木橋の渡し賃は3厘、30年に5厘、大正2年頃から1銭になっている。
木橋は川に打った木杭に板を敷いたもので、洪水のときは板をはずして岸にまとめられ綱で結ばれていた。橋守も代々林家がつとめ、昭和13年に橋を仙台市に寄付したのは、藤助から数えて4代目の林吉次郎だった。
昔、長町渡戸に橋を架けようとするたび、大雨が降って洪水になった。龍神のたたりといわれたため、信仰のあつい若い娘を人柱にすることになったがなかなか見つからない。すると長町の長者の娘、愛姫(はしひめ)が人柱になることを申し出た。姫は川のそばにある十八夜観音堂に籠もって祈り、雨がやむと川のそばの穴に生き埋めとなった。穴から祈りの声が消えると川の大水は黄金の龍に姿を変えて天に昇り、洪水は見事におさまった。
橋ができあがると姫が生き埋めになった穴に供養碑がたてられ、現在も橋姫明神の小さなほこらが広瀬橋のたもとに祀られている。供養碑には文政6年(1823)と刻まれており、そばにはかつての永町橋の礎石が置かれている。
杜の都の母なる川、広瀬川は、市民の水となり、豊かな耕土を支え、幾多の文化と歴史をはぐくみながら、市民の生活に潤いのある調和をもたらしてきた。既に、われわれは、健康都市宣言を行い、「清く、明るく、住みよい」仙台を都市づくりの基本に掲げ、同時に広瀬川の清流を守るための環境整備に取り組んできた。しかし、都市化の進展は著しく、このまま放置すれば広瀬川の清流は奪い去られようとしている。この市民共有の財産である美しい広瀬川の清流を保全して次代に引き継ぐことは、われわれに課せられた重大な責務である。ここに、われわれは、衆知と総力を結集し、市民あげて広瀬川の清流を守ることを決意し、この条例を制定する。
日本髪を結うために髪の毛をまとめるためのひも。組ひもや麻糸が使われていたが、江戸時代になって、紙のこよりをつかった水引元結(みずひきもとゆい)が流行した。
仙台でも足軽の内職でつくられ、「仙台元結」の名で売られていた。
このページは、仙台開府400年を記念して実施した「若林区の魅力発見事業」で平成14年度に製作しました。
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