若林区
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更新日:2022年6月21日
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江戸時代、城下の南の入り口だった河原町。そこから、南材木町、穀町、南鍛冶町、荒町へと続く道は、城下の中心「芭蕉の辻」を抜けて北へ向かう奥州街道でした。
多くの人や物の行き交った道は、いまも区内に残っています。400年近い歴史を刻む道すじをたどりましょう。
藩政時代は、ここが城下の南の入り口。境には「丁切根」(ちょうぎんね)とよばれた木戸があり,朝夕に開け閉めされました。
「河原町」と呼ばれたのは、広瀬川岸に広がっている町だから。町方二十四カ町のひとつ。仙台開府以来,多くの人々があたりの道端や畑に野菜を並べて売っていたといいます。
活気づくのは寛永17年(1640)、ここに青物市場が開設されてからのようです。市場は農産物の流通拠点であって、農家が作物を持ち込むほか、編み笠をかぶって天秤棒をかついだ近隣の足軽たちも庭でつくった野菜を売りにきたといいます。市(いち)は昭和まで続きました。江戸中期以降は豪商の家が建ち並ぶ、城下でも有数の商人町となりました。
佐藤家(現・つぼや)
昔は糸屋であった。現在は,菓子店の店舗として使われている。建物は第8回仙台市都市景観賞を受賞。
仙南堂薬店
白漆喰(しろしっくい)の堂々とした土蔵造りは、100年ぐらい経つもの。
はじめ、砂糖問屋の店として建築された。
相原家
明治11年の建築。当時、相原家はタバコの製造や販売を行っていた。
昭和10年,仙台市電開通のときに敷地を一部とられたため建物を引いて今の場所に後退させたという。
現在は骨董店としても使われている。
小西家
仙台有数の商家だった家。主人は代々小西利兵衛を名乗り、5代目からは河原町に移って荒物屋となって順調に商売を広げ、幕末には大店となっている。
また、宮城紡績電灯会社の社長として仙台の電気事業に尽力した伊藤清治郎は、7代目利兵衛の孫にあたる。
河原町の南に発展した下河原町にも、江戸の歴史を残す場所がある。
桃源院
飢饉(ききん)による餓死者を供養するため、安永3年(1774)に7代藩主伊達重村夫人が、黄檗宗(おうばくしゅう)の寺として開いた。
毎年8月に行われている広瀬川の灯ろう流しは、もともと桃源院で飢饉供養のために行われたのが始まり。
旅立稲荷神社
広瀬橋に立つと、ケヤキの大木が目を引く神社。永禄年間(1558~69)に伏見稲荷を勧請して建立されている。
伊達政宗が江戸への初参勤の時に「旅立明神」と名づけてから旅立稲荷と呼ばれるようになった。
旅の道中安全や,交通安全の神社として信仰を集めている。
火防秋葉神社
河原町、南材木町、舟丁界隈の守護神として古くから奉られ、特に火伏せの神として信仰を集めてきた。
地元では、町に大火がないのはこの神の加護といわれている。
河原町に続くのは、南北に長い南材木町です。その名のとおり、木材の専売権を許された町で、寛永年間(1624~43)、若林城が造営された際に、その城下町として割り出されました。その頃は若林材木町と呼ばれ、南材木町と呼ばれるようになったのは、若林城が廃されてからです。延宝3年(1675)までは、材木のほかに煙草の専売権を持ち、その後も、後任の大町の煙草問屋から問屋代を得る権利がありました。町方二十四カ町のひとつで、町の中央を七郷堀が横切っています。土蔵造りの建物がいまも点在し、かつての隆盛を伝えています。
平野材木店
明治10年(1877)創業。店舗と倉庫は昭和初期の建築。店舗には古い金庫や大のこぎりが残されていたものの、平成21年(2009)に惜しまれながらも解体されました。
津國家(つのくにけ)
明治32~33年(1898~99)頃の建築。
当時、津國家は第二師団などに出入りしていた大きな菓子店だった。
大正12年(1923)に、「宮城輪業商会業」の名で自転車卸に業態転換。建物はそのまま使われ、一時期はジーンズショップとして地域のランドマーク的な存在であったが、現在は取り壊されて現存しない。
丸木
佐藤家は江戸時代以来の薬屋で、「丸木」の屋号で知られてきた。
建物は天明元年(1781)の建築という。現在も舟丁で薬店を営み、現在7代目。4代目は高野長英をかくまったという言い伝えがある。
小林薬局
かつては味噌醸造を行い、明治時代には主人の小林八郎右衛門が秋保電鉄を開通させている。
明治2、3年(1869~70)頃の建築という。店内の階段だんすは一見の価値あり。
お茶処丸久
レンガ工場や市営バスの前身の銀バスを経営した伊勢久治郎の住宅と事務所で、明治40年代(1907~17)の建物だった。
一時期、喫茶店となっており、土蔵造りの内部を見ることができ、店の奥、庭園の見える自宅が茶室として、貸し出されていた。
現存しない。
針惣
昭和26年(1951)から62年(1987)までは旅館だった。市川房江、幸田文、角川源義をはじめ、東北大学での講義のため来仙した教授たちが多く宿泊したという。母屋は昭和初期の建築。入り口には大きなイチイの木がある。
金刀比羅(ことひら)神社
もともとは針惣の屋敷神だったが、戦後の昭和23年(1948)に町内の人たちが鎮守様として建て直した。
江戸時代は、立町、二日町、新伝馬町とともに米穀売買の特権が与えられ、「四穀町」と呼ばれていました。当時は米問屋が多く並んでいたといいます。
近くの「堰場(どうば)」には、広瀬川を通って運ばれた米を貯蔵する蔵がありました。ここも、「町方二十四カ町」のひとつです。
いまは、商店の続く通りですが、ところどころに古い建物が残り、歴史を物語っています。間口が狭く奥に深い地割りは、江戸時代以来のものです。
枡形の道
南材木町と穀町の境は道が左右に急カーブしている。
城下町を守るため、敵の侵入にそなえて見通しを悪くし、待ち伏せができるようにわざと道を曲げたなごりだ。
佐々木米穀店
ちょうど、穀町と畳屋町の角にある。建物は明治3年(1869)につくられたもの。
佐々木家は昭和11年(1936)からここで米穀業を営んでいる。
うどん市
建築されたのは昭和初期。建物の高さは建築された時代を知る手がかりになる。新しいものほど軒の高さがある。佐々木米穀店の建物とくらべてみると興味深い。
南鍛冶町は、荒町と穀町の間にある,伊達家米沢以来の鍛冶職人の町です。ここで、奥州街道は南から西に曲がります。
寛永5~11年(1628~34)に元鍛冶町(現在の国分町から立町辺り)から、南北の鍛冶町に分離され移されました(北鍛冶町は現在の二日町北四番丁辺り)。
町方二十四カ町のひとつで、穀町と同様、町屋敷ならではの細長い敷地が連なる町です。
三宝荒神社
ここに住んでいた鍛冶屋衆と町の守護神。火伏せの神として信仰を集めてきた。御神木のイチョウは樹齢500年といわれ、雌雄同根というめずらしいもの。
また、鎌倉時代の板碑があり、この地に古くから人が住んでいたことが分かる。いまも夏祭りやどんと祭りが町内の人たちの手で行われている。
泰心院
曹洞宗で、北山輪王寺の末寺。米沢で開山し、伊達家とともに岩出山に移った際に火事にあって廃絶されたが、慶長12年(1607)に現在地に再建された。
山門は、明治維新の折に仙台藩校だった養賢堂の正門を移築したもので、仙台市の指定文化財になっている。
東漸寺
浄土真宗大谷派の寺で、利府で開山して霞の目に移り、さらに現在地に移った。
本堂は約230年前の建造で,材料は400年前のものといわれる。横綱谷風の顕彰碑がある。
門間箪笥(たんす)店
明治5年(1872)創業の仙台箪笥の老舗(しにせ)。
母屋や倉、工房などは昭和初期の建築で、現在国の登録文化財に答申中である。母屋は仙台箪笥伝承館として公開されている。中にはさまざまな箪笥が展示されている。
洞口金物店
大正4年(1915)までは鍛冶屋を営んでいたという金物屋。大正4年の店内には昔なつかしい商品も多く並べられている。
鈴木家
南鍛冶町最後の鍛冶屋として,昭和35年(1960)まで仕事を続けた。
間口は4間、奥行き25間の細長い屋敷で敷地は100坪あり、表通りに面して鍛冶場があった。
八木商店
100年前の建築。母屋部分は、いまだに障子と雨戸のまま。
八木家は昭和12年(1937)に文具店を出店。
南鍛冶町からまっすぐ西に延び田町(現在の五橋辺り)に至る商人町です。
伊達家と共に、米沢から岩出山を経て仙台に移ってきた6つの御譜代町のひとつです。また、「町方二十四カ町」にも数えられました。
仙台開府当初は、現在の南町通から東北大学金属研究所に至る南北の道すじ付近にありましたが、政宗の若林城築城に伴い,寛永4~5年(1627~28)頃から現在地に移されました。
江戸時代には麹(こうじ)の専売権が与えられていました。現在は、通りの両側にはさまざまな業種の店が張り付き、下町らしい商店街となっています。
歩くと気付くのは、ここでも間口が狭く奥に深い江戸時代の地割りが色濃く残っていること。商店街はユニークな活動でも知られています。
冬は麹,夏は団扇
現在残る麹屋は創業が400年前の1軒のみとなった。荒町の古くからの人の中には、先代までは麹屋だったと話す人が少なくない。
夏期には麹製造を休むために渋団扇(しぶうちわ)づくりが副業として盛んになり、藩政期末ごろには特産品になっている。
回文師仙代庵
江戸時代の荒町の麹屋の主人、細谷勘左衛門は回文師として、江戸にもその名を知られた人物。「仙代庵」と名乗っていた。
また、仙台に立ちよる文人を手厚くもてなして町人文化を支えた旦那衆のひとりでもあった。
絵と回文を描いた渋団扇は人気を集めたという。勘左衛門が朝から酔っぱらい堀に落ちて詠んだ回文。「飯前の酒、今朝の戒め(めしまいのさけ,けさのいましめ)」。
佐藤味噌醤油店
創業以来,味噌や醤油をつくり続けている。
鈴木家
江戸時代は麹屋を営んでいた旧家。現在は荒町の北裏にあるが、ここ旧制第二高等学校の明善寮のある場所だった。
鈴木家の敷地が当時の当主鈴木重兵衛氏によって提供されたという。うっそうとした庭には、そのいきさつを伝える「明善清水小路碑」が立っている。
森民酒造本家
仙台市内では数少なくなった、造り酒屋4軒のうちの1軒で,創業は150年以上前にさかのぼる。
菊の花と広瀬川の清流から命名された清酒『菊川』をつくっている。店は大正時代の建築。
昌伝庵
伊達家の米沢伊達時代(永正3年、1506)に創設された曹洞宗の寺で、伊達家に従い仙台に移った。
本堂は250年前のもの。
仏眼寺
伊達家の福島伊達時代(康永2年、1343)に創設。
日蓮正宗で、伊達家とともに仙台に移った。江戸時代、吉原にいた伝説の美女「高尾」の墓がある。
満福寺
毘沙門堂には運慶作と伝えられる毘沙門天が納められている。御開帳は12年に1度で、次は平成34年(2022)である。唐門は、仙台市の指定文化財。江戸時代には境内で大相撲本場所が開かれていた。
奥州街道の道沿い、さぞやにぎわったことだろう。
奇縁二天石
毘沙門堂入り口左に立っている。片面に「たづねる方」もう片面に「をしうる方」とあり、かつては求人や尋ね人に使われた。嘉永3年(1850)建立と刻まれている。
昭和20年(1945)の仙台空襲の時も行方不明の人を捜す紙がたくさん貼られていたという。
常念寺
寛永2年(1625)開山の浄土宗のお寺。北六番丁の仙岳院(のちに清浄光院万日堂に移る)、榴岡天神下の願行寺とともに、「オエゴデラ(大回向寺)」として市民に親しまれてきた。5月の13日から15日までの3日間、3つの寺が3年に1度ずつ交替で大回向を開く。
孫兵衛堀跡
「孫兵衛堀」は、清水小路を水源とする湧き水を利用してつくられた農業用水で、生活用水も兼ねていた。伊達政宗が灌漑技術者として重用した川村孫兵衛がつくったといわれ、その名がつけられ、荒町小学校の南側に碑が立てられている。
流域を今の地名にあてはめると、荒町と田町(現在の五橋辺り)の境に架けられた清水板橋をくぐって南下し、荒町小学校校庭を西から東に横切って姉歯横丁から南に土樋に出て広瀬川の段丘にそって東に流れ、石垣町から石名坂の円福寺北側を北上して南鍛冶町の板橋をくぐり、三宝荒神社横から元茶畑の仙台一高の敷地を斜めに横断、東華中学校脇に出て仙石線榴岡(つつじがおか)駅そばで悪水堀に合流した。
竿政
伊達家御用達の仙台竿の技術を今も受け継ぐ。その技術は全国的も評価され、何年も先まで予約が埋まっているという。
西川玉林堂
創業は明治20年(18871)。江戸時代の足軽たちの内職のひとつが筆づくりだった。その技術が受け継がれて、若林区には今も筆を製造,販売しているお店が残る。
姉歯横丁
荒町から愛宕橋たもとの真福寺に向かう通り。明治末期に愛宕橋まで道がつくられた。
姉歯八郎右衛門が天明から寛政の頃(1780年代)に住んでいたためにこの名がついたという。
このページは、仙台開府400年を記念して実施した「若林区の魅力発見事業」で平成14年度に製作しました。
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