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更新日:2023年1月17日

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若林城とは

若林城は、仙台藩初代藩主伊達政宗が仙台城築城後の寛永5年(1628)に造営し、寛永13年(1636)までの約8年間を過ごした城です。
政宗は仙台城に公的な儀式で赴く以外はこの城を日常の居所としてましたが、政宗の死に伴い城は廃され、その建物は仙台城二の丸等に移築されたと言われています。

若林城跡の位置と周辺の遺跡

若林城跡は、JR仙台駅の南東約3kmの若林区古城にあり、その名は区名にもなっています。
城の周辺には、東北で有数の規模を誇る遠見塚古墳をはじめ、古代には陸奥国分寺や国分尼寺が造営されるなど、この地が古くから仙台地方の中心であったことがうかがえます。
また、中世には、南小泉遺跡に有力者の城館や屋敷が複数営まれ、近世になると養種園遺跡において2代藩主伊達忠宗による「御仮屋(おかりや)」や4代藩主伊達綱村による「小泉屋敷」という伊達家の別荘が造られました。

写真 若林城跡全景(東から)

若林城前夜

戦国期には、この地を国分(こくぶん)氏が治め、延宝年間(1673~1681)の『仙台領古城書立之覚』には、付近に2つの「古城」があったとしています。また、元禄・享保年間(1688~1736)の『東奥老士夜話(とうおうろうしやわ)』によれば、若林城はこのいずれかの場所に築かれたとしています。
若林城と城下の方向が西側に隣接する仙台城下と異なるのは、若林城が造営される以前にあった国分氏の城下を踏襲したことによるとも言われています。

若林城下

17世紀末の『仙台鹿の子(せんだいかのこ)』には、若林の範囲を、「東南は野を限り、西は土樋東脇毘沙門堂通町切、北は三百人町切」とあり、城下は東西約3km、南北約1.5kmの範囲だったと推定されます。
仙台城下と双方に屋敷を構える家臣も多く、記録には現在はみられない「米町」や「絹布町」などの町名が確認できるほか、「若林町奉行」が置かれていました。

写真 若林城下の範囲(昭和22年米軍撮影)

若林城の構造

寛永5年(1628)に若林城は幕府の許可を受け、「屋敷」として造営されました。若林城は東西に長い長方形で、四方に防衛的性格をもつ張り出しを備えた近世城郭です。堀跡を含む規模は東西420m、南北350mあり、土塁の内側は東西250m、南北200mと広大で、これは仙台城本丸や二の丸の規模に匹敵します。城の周囲を高さ5m前後の土塁が巡っていますが、石垣は確認できません。土塁の外側には幅25m程度の塀がみられ、現在は城の東と南側にその姿を残すのみです。
出入口は南側を除く3か所にあり、西口を入ると鉤形(かぎがた)に折れる高さ約2mの内枡形土塁(うちますがたどるい)がありますが、かつては他の2か所にもこのような土塁が存在したことが廃城後の絵図から確認できます。政宗の側近による『木村宇右衛門覚書(きむらうえもんおぼえがき)』には、「大手は西」としており、西側の二つの張り出しはそれを意識した配置といえます。

写真 若林城跡全景(昭和20年米軍撮影)

写真 城南側の土塁と堀跡(西から)

文献にみえる若林城

現在、城としての絵図は残っていませんが、いくつかの文献により当時の城の様子がうかがえます。
寛永4年(1627)の政宗の指示を書きとめた『若林普請覚(わかばやしふしんおぼえ)』には、庭園とみられる「山里(やまさと)」のほか、「南西どて」、「南之丸(みなみのまる)」、「的場(まとば)」などの場所や施設の名が見られ、『東奥老士夜話』には、城の東南角に「矢倉(やぐら)」、北に「築山(つきやま)」があったとしています。しかし現在は、土塁上部に櫓台(やぐらだい)などは確認できず、さらに伊達成実による『政宗記(まさむねき)』には、堀幅三〇間(約54m)とありますが、現在の堀幅とは違っていることから、これらが現在の城跡以外の場所を記している可能性があります。

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