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ページID:13783
更新日:2016年9月20日
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西暦 |
年号 |
若林城・城下関連のできごと |
仙台藩の主なできごと |
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若林城 |
16世紀後半 |
(戦国期) |
国分氏の小泉城とその城下が存在[仙台領古城書上・東奥老士夜話] |
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1593 |
文禄2年 |
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政宗、文禄の役で出陣 |
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1602 |
慶長7年 |
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仙台城がほぼ完成する |
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1615 |
元和元年 |
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大坂夏の陣に参陣する |
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1625 |
寛永2年 |
政宗、若林に出向く |
忠宗が初めて国入りする |
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若林城期 |
1627 |
寛永4年 |
「仙台屋敷構」=若林城に幕府の造営許可が下りる[伊達家文書] |
政宗、花壇屋敷より江戸参勤に出立 |
1628 |
寛永5年 |
若林城が完成し、祝の儀が催される[貞山公治家記録] |
江戸城の石垣普請を命じられる |
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1629 |
寛永6年 |
若林城の西曲輪において茶会が催される[貞山公治家記録] |
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1631 |
寛永8年 |
木綿商人に若林城下の「絹布町」で販売するよう指示が出される[貞山公治家記録] |
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1624~1636 |
寛永年間 |
若林町奉行が置かれる[石母田家文書] |
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1636 |
寛永13年 |
政宗、遺言で若林城の取り壊しを命じ、江戸で死去する[貞山公治家記録] |
江戸城の外掘普請を命じられる |
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1638 |
寛永15年 |
仙台城二の丸建築に伴い、若林城建物の一部を移築する[義山公治家記録・茂庭家記録] |
寛永年間?に「御二之丸御指図」が作成される |
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1639 |
寛永16年 |
若林城および城下が廃止され、以後小泉村分となる[石母田家文書・仙台鹿の子] |
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若林城 廃城後 |
1640 |
寛永17年 |
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寛永の総検地が開始される |
1645~1646 |
正保2~3年 |
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奥州仙台城絵図(正保絵図)が作成される |
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万治以前 |
忠宗、旧若林城下の北に「御仮屋」を造営する[封内風土記](養種園遺跡) |
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1658 |
万治元年 |
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忠宗死去、綱宗三代藩主となる |
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1671 |
寛文11年 |
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「伊達騒動」(寛文事件)おこる |
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1673 |
延宝元年 |
琵琶首にあった焔硝蔵で爆発があり、焔硝蔵を若林に移す[仙台鹿の子] |
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1680 |
廷宝8年 |
綱宗、旧若林城内にあった薬園へ行く[肯山公治家記録] |
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1687 |
貞享4年 |
焔硝蔵の爆発で人足8人が死亡、鉄砲薬1,600貫余りが失われる[貞山公治家記録] |
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1692 |
元禄5年 |
綱宗、「御仮屋」の地に別荘(小泉屋敷)を造営する[貞山公治家記録] |
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1741 |
寛保元年 |
北側の堀を用水のために整備する[獅山公治家記録] |
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1742 |
寛保2年 |
若林城が再び城下に組み込まれる[源貞氏耳袋] |
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1748 |
寛延元年 |
宗村、若林城に立ち寄り、薬園守のもてなしを受ける[忠山公治家記録] |
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(1751~1771) |
(宝暦~明和) |
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※若林城を描いた最も古い城下絵図(宝暦~明和) |
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1868 |
明治元年 |
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奥羽越列藩同盟成立・仙台藩降伏 |
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刑務所 関係 |
1878 |
明治11年 |
西南戦争国事犯の収容のため、監獄の建設に着手する(※六角塔の建設) |
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1879 |
明治12年 |
宮城集治監が設置される |
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1922 |
大正11年 |
宮城監獄を宮城刑務所とする |
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1965~1973 |
昭和40~48年 |
六角塔の解体 |
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