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更新日:2023年1月17日

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発掘調査でわかったこと

明治12年(1879)、この地に宮城集治監(みやぎしゅうちかん)が設置されて以来、施設の建設により若林城の遺構は既に失われているものと考えられていましたが、平成16年から開始した、宮城刑務所の全体改築に伴う発掘調査のおいて、城の御殿建物跡やそれらを取り巻く様々な遺構が発見されました。

写真 第5次調査で発見した建物群(東から)

画像 発見した建物群や石敷遺構(第5次調査)

礎石建物跡(そせきたてものあと)

城の西側正面に位置する第5次調査区では、整地土の上から礎石を用いた4棟の大規模な建物跡を発見しました。

1号建物

1号建物は、規模が東西7間(13.8m)以上、南北7間(15.8m)の東西建物で、西側中央に幅1間半(3m)の妻入り玄関を持つ建物です。礎石は全く残されていませんでしたが、その基礎構造の礎石跡は側柱を中心に31基を確認しました。径は1.5m程度と大きく、特に建物中央に南北に並ぶ2基は径が2m以上の大型であり、特殊な構造の建物であったと考えられます。建物周囲には屋根からの雨水を受ける雨落ち溝が巡り、雨水の量に応じて溝の構造が違います。また、南側には排水を目的とした石組遺構(いしぐみいこう)がみられます。

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1号礎石建物跡(北から)

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石組遺構

2号建物

2号建物は鉤型(L字形)に曲がる建物で、規模は東西6間(12.9m)以上、南北8間(16.8m)です。西と南側には幅1間半の縁(廊下)がまわっており、南縁は西側の3号建物と通路でつながっています。礎石跡は54基確認され、総柱状の配置から座敷部をもった建物であったことがうかがえます。また礎石を抜き取った穴からは後に捨てられた瓦が多数出土しています。

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礎石跡

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雨落ち溝跡

3号建物

3号建物は、東西4間(10.0m)、南北10間(21.8m)の南北建物で、周囲に1間半と1間の縁がまわる建物と推定されます。礎石跡は47基確認し、2号建物同様に座敷部をもった建物とみられます。

4号建物

4号建物は、1号と2号建物に挟まれた東西3間(5.9m)、南北2間(3.9m)の小型の建物で、他とは異なった用途に使用された建物と考えられます。

城の存続期間が8年あまりと短かったため、これらの建物群は一部を除き、造り替えが全く認められず、造営当時の姿で発見されました。

石敷遺構(いしじきいこう)

第5次調査では、建物群の正面と南面に玉石を敷いた石敷遺構を確認しました。特に西側の石敷遺構は大手側の入り口正面の位置にあたり、石敷の上部と下部では敷く石の大きさを変えています。また、石敷と建物の間には塀跡が確認されました。

その他の遺構

第5次調査に隣接する第7次調査では複数の建物に囲まれた中庭的な場所から、小さな池跡を発見しました。池の中には廃城時に捨てられた瓦が入っていました。
南東部の第6次調査では西側に広がる大規模な落込みが確認され、絵図との比較からこの落込みは城内にかつて存在した大規模な池跡の可能性があります。

写真 池跡とみられる遺構(第7次調査)

出土遺物からみた若林城

調査では大量の瓦に加え、陶磁器や土師質土器など、若林城で使用していた遺物が出土しました。瓦には文様のある軒瓦(のきがわら)のほか、菊丸瓦・輪違いなどの棟込み瓦や棟瓦(むねがわら)、面戸瓦(めんとがわら)などがあります。軒丸瓦は三巴文、軒平瓦は三葉文や桔梗文があり、他には朝鮮の役に参陣した大名がよく用いたとされる朝鮮系の滴水瓦(てきすいがわら)も出土しました。
陶磁器は美濃、丹波、唐津、肥前などの国産陶器のほか、中国産青花や白磁、そして土師質土器皿や焼塩壷なども出土し、当時の城内での暮らしぶりがうかがいます。しかし、出土数は意外に少なく、陶磁器類も建物同様に廃城と共に城外に持ち出されたことを示しているかもしれません。

写真 出土した瓦(花菱文滴水瓦)

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