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更新日:2024年2月1日

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主な収蔵品 12 支倉常長に関する資料(2)

3 慶長遣欧使節の旅

支倉常長ら一行は現在の宮城県石巻市にある月浦を1613年10月28日(慶長18年9月15日)に出航し、遠くスペイン、ローマに向かいます。この慶長遣欧使節が乗った船は、スペイン側の記録ではサン・フアン・バウティスタ号(洗礼者聖ヨハネという意味)とよばれ、多くの商人を含んだ総勢180人あまりを乗せての船出でした。偏西風と北太平洋海流にのって太平洋を横断し、日本を出て3か月後にメキシコのアカプルコに到着しました。

しかし、日本ではそのころ、徳川家康がキリシタン禁令を強化したため、彼らの交渉には最初から暗雲がたちこめていました。サン・フアン・バウティスタ号を降りた大部分の人々はメキシコにとどまりましたが、スペイン国王とローマ教皇あての手紙を託されている常長がひきいる使節団約30名は、1614年6月10日、スペイン艦隊に便乗して大西洋を渡ることになりました。

途中、嵐にあったため、キューバ島ハバナを経由して、スペインに上陸したのはその年の10月5日。ソテロの出身地であるセビリアで大歓迎を受け、12月5日頃にスペインの首都マドリードに到着します。

 

写真は、伊達政宗が常長に託してソテロの故郷であるスペインのセビリア市に当てた手紙の複製です。

金箔・銀箔を散らした紙に墨で書かれていますが、銀は酸化したため黒ずんで見えます。内容は、ソテロの出身地であるセビリア市と友好親善を図りたいこと、スペイン国王とローマ教皇のもとに使節を派遣するため力添えをお願いしたいことの2つです。

原本はセビリア市文書館に所蔵されています。

画像/伊達政宗書状 セビリア市宛(複製)

伊達政宗書状
セビリア市宛(複製)

 

4 スペイン国王に会う

1615年1月30日、ついに常長はスペイン国王フェリペ3世に会いました。その場で政宗の手紙を渡し、フランシスコ会修道士の派遣とメキシコとの貿易を希望することを伝えます。

2月17日、常長は王立フランシスコ会跣足派女子修道院付属教会において、スペイン国王や王女たちの列席のもと洗礼を受けます。洗礼名は、国王と聖人の名前を冠した「フェリぺ・フランシスコ・ハセクラ・ロクエモン」でした。

しかし、ソテロと対立するビスカイノやイエズス会側からは、日本国内での禁教と弾圧、ソテロの事実と異なる報告、使節派遣の目的が本当は貿易だけであること、かつ政宗は日本の一領主に過ぎないことなど、常長らにとって不利な情報が次々ともたらされていました。このような中、はなやかな歓迎とは裏腹に、国王から良い返事は得られず、使節は8か月もマドリードに滞在することになりました。

交渉を進めるためにはローマ教皇の力が必要と考え、1615年8月22日、一行は予定どおりローマへ出発します。途中フランスのサン・トロペに上陸し、一行の生活のようすがヨーロッパ側の記録に残されました。

 

画像/ローマ教皇謁見図 シピオーネ・アマーティ著 『伊達政宗遣欧使節記』(ドイツ語版)より

ローマ教皇謁見図
シピオーネ・アマーティ著
『伊達政宗遣欧使節記』(ドイツ語版)より

 

画像/シピオーネ・アマーティ著 『伊達政宗遣欧使節記』(ドイツ語版)


シピオーネ・アマーティ著
『伊達政宗遣欧使節記』
(ドイツ語版)

アマーティ著『伊達政宗遣欧使節記』(イタリア語版)は、1615年にローマで出版された書物で、支倉常長一行のヨーロッパでの動きが詳しく記されている本として有名なものです(写真は1617年にドイツ語版として出版されたもの)。

著者のシピオーネ・アマーティはローマの歴史学者で、通訳兼交渉係としてマドリード出発時からローマまで使節に付き添いました。政宗とソテロの出会いから、使節の派遣に至る経過、フェリペ3世やパウロ5世との謁見などが、たいへん詳しく記されています。

 

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