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更新日:2022年12月20日
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<大橋・二の丸・三の丸・御裏林マップ>
広瀬川にかかる城と城下をつなぐ橋です。現在、大橋から大手門へ向かう道路は、まっすぐに伸びていますが、かつては大手門の手前で左に折れていたことが明治時代に撮影された古写真からわかります。大橋は、明治25年(1893)に鉄橋に架け替えられ、道路も直線に替えられました。広瀬川の川底には橋脚の柱を据えるために岩盤を掘り込んだ柱穴が見られ、かつての橋の位置は現在よりやや北側にあったことが分かります。
<左:大橋 古写真><右:大橋 現在の写真>
<川底の柱穴>
伊達政宗没後、二代藩主忠宗は、幕府の許可を得て本丸より一段低い土地に二の丸を造営しました。その広さは、東西約310m、南北約200mでした。二の丸には、藩の実務を執り行う建物のほか、藩主の居所も置かれ、藩政の中心として幕末まで機能しました。明治に入り、明治4年(1871)東北鎮台が置かれ(後に第二師団)、昭和20年まで軍の施設として使用されていました。御殿建物は明治15年(1882)の火災によりほとんど焼失してしまいました。昭和20年から32年までは進駐軍のキャンプとして使われましたが、現在は、東北大学川内キャンパスになっています。
<「奥州仙台城絵図」(二の丸付近)正保2年(1645) 仙台市博物館所蔵>
<二の丸御殿の復元模型 仙台市博物館所蔵>
三の丸は、東西約140m、南北約120mの広さで、水堀と土塁に囲まれた曲輪です。江戸時代の城下絵図には「蔵屋敷」「御米蔵」「東丸」などと記載され、年貢米などを貯蔵する蔵が置かれていたと考えられます。発掘調査で、「元和」と記された木簡や、江戸時代初めの織部や美濃伊賀などの陶磁器が出土し、政宗時代の庭園や茶室をともなう屋敷があったことがわかっています。現在は仙台市博物館が建っています。
<「奥州仙台城絵図」(三の丸付近)正保2年(1645) 仙台市博物館所蔵>
<左:三の丸跡の堀(長沼)と土塁><右:発掘調査で出土した茶道具の水指>
城下絵図には、三の丸の南東部、現在の長沼の南に堀が描かれていますが、現在は埋没しています。平成17~19年度に行われた発掘調査では、堀の北岸・南岸・西岸・南西角を確認し、南北幅が35~40m以上、深さが現地表面より6m以上ある非常に大きな堀であったことがわかりました。この堀は、出土した遺物等から、幕末まで機能し明治以降に徐々に埋没していったと考えられます。
<絵図に描かれた堀跡(「奥州仙台城絵図」正保2年(1645)仙台市博物館所蔵>
<左:堀跡の発掘調査状況><右:堀跡南岸の杭列検出状況>
御裏林は、仙台城西側の深い山林で江戸時代には伐採や立ち入りが管理されていた場所でした。尾根筋には堀切や土塁などが築かれ、敵の侵入を防いでいました。また、「御清水(おすず)」と呼ばれた本丸の水源がありました。都市近郊ではきわめて貴重な自然林で、生息する動物も貴重なものであるとして、昭和47年(1972)に国の天然記念物「青葉山」に指定されました。東北大学植物園として管理・公開されています。
<仙台城跡空撮(南から)>
<左:御清水(本丸の水源)><右:植物園内にある堀切>
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